なんでもない日々。

日々の思いや気づきなどを雑多に書きます。

水辺のイメージ

昨日、自分の書いた言葉をすぐに忘れてしまうということを書いてから、なんとなく昔書いた記事たちを読み返してみていた。すぐに忘れてしまうからか、過去記事はいつも新鮮な気持ちで読み返せる。自分の文なのにね。もしかするとそんなもんだったりもする?のかな。

さっき見つけた四年前に書いた水辺に関する記事をちょっと転載してみようかと。

以下↓

高校生の頃のこと。
私の通っていた学校は小高い丘の上に建っていて、教室の窓の遠く向こうには明石海峡大橋とキラキラ光る海が見えた。
高校生の頃を思い出してみた時、いつも真っ先に頭に浮かぶのは何かしらの具体的な出来事ではなく、窓から見えたあの海の景色と、学校に続くキツイ坂道を登りながら見上げていた校舎の姿だったりする。

思えば、私の中の思い出はいつもこんなふうかもしれない。
何かの場面がリプレイされるというよりは、とある一瞬を切り取った写真のような記憶。
雨の日になると思い出される小学生の頃の思い出とかもそうだけど。
家で一人留守番をしながら薄暗い空から雨の落ちてくる様をジッと見ていたこと。
あのときの白い糸のような雨、薄暗い窓の外の世界の淡く曖昧な色。
それを見つめながら感じていたどうしようもなく心もとない気持ちなんかも一緒に。

先日、外来で診ている患者さんが琵琶湖へ旅行した話を聞かせてくれた。親しい人たちと小型船を借りて湖をクルージングしたのだと。言語障害のある人なのだけど、楽しい出来事を話すときは伝えたい気持ちが伝達性を押し上げてくれるのか、いつもよりもとてもはっきりと話せていた。

私も琵琶湖には何度か行ったことがある。その患者さんも琵琶湖は好きでよく行くと言うので、少し気になって、夜の琵琶湖を見たことがあるかと聞いた。そしたら、あるよと答えが返ってきて、思わず「怖くなかったですか?」と聞いてしまった。

患者さんはキョトンとして、何が?と。あ、余計なことを聞いちゃったかもと思いつつ、そこから少しだけ自分の話をした。基本的に訓練の間は患者さんの話が主体で自分の話は必要最低限にとどめるようにしている。だけど、この時は少しだけ。

夜の湖も海も私は基本的に怖いと思っている。
真っ暗で、なんだかとても果てしなくて。
特に夜の琵琶湖は打ち寄せる波もなく、真っ黒い何か大きなものがそこにゆらゆらと漂っている様が私にはとても恐ろしく思える。
…と、そんな話をした。
患者さんは「ああ、たしかにそうだね」と言ってくれたけど、あれはもしかすると、ただ私に調子を合わせてくれただけかもしれない。

怖いなんて言いつつ、私は海も湖もとても好き。時々無性に見に行きたくなったりもする。別に何をするでもなく、そこに座って見ているだけでいい。高校生の頃はたまに須磨の駅で途中下車して海を見にいっていた。別にわざわざ降り立たなくても、行きも帰りも電車の車中から海は見えたのだけど。
でも、何かを確認したくなるのか…もっと近づいてみたくなる時がある。

あの、ふいにやってくるどうしようもなく惹かれる気持ちの正体は何なんやろう。
とても手に負えない大きなものへの憧れ…?
畏怖のような、憧憬のような。
もしかするとそのどちらもかな。

遠く水平線を見ながら、あの先にはさらに海があって、またもっと先にも海は続いていて…そしてとてもとても深いんやろうな。ずーっと底はどんどん遠のいていって、前も後ろも下も全部全部海で際限ない…なんて、そんなことをただボンヤリ思ってみたりしている。

あ、須磨って神戸の地名ね。つい誰しも知ってるみたいに思っちゃうけど須磨駅って普通にローカル駅やもんね。ちなみに今週末は久しぶりに神戸に行く。楽しみやな。

ここから今の話。実はさっきこの記事(上の記事)を読んでたら、突然、フォーレのシシリエンヌが頭の中を流れ出した。

気になって少し調べたら、 この曲は当時、『ペレアスとメリザンド』という劇の中の主人公二人が泉のほとりで戯れるシーンで使われたらしい。もともと水辺にまつわるイメージを含んだ曲だったとして、それと同じイメージが時を超えて私にも突然共有されたみたいでなんかちょっと面白いなと思ったりした。

徒然。

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書くこと。

時々、なんで私はこんなに簡単に忘れてしまえるんやろうと思うことがある。特に、自分がこれまで書いた文章なんかはほとんど覚えていない。

最近、知人が、「本棚を整理していたらたまたまこんなの見つけた」と送ってくれた文章があった。画像として切り取られたその文章は、私が高校生の頃に書いた詩だった。タイトルと名前の横に"佳作"と書かれてあり、それはかつて私がとある作文コンクールで賞を取ったときのもので、知人が見つけたのは当時の入選作文集だった。「わぁ、懐かしい!」なんて一応言ってみたけれど、実はその詩の内容も、文集の存在さえも綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

そもそもなんでコンクールに出すことになったのかもよくわからない。授業中に書いて、先生が気に入ったのを適当に選んで応募したんだったかな…。たぶんそんな感じな気がするけど…忘れた。

ちなみにその詩は、今は亡き父方の祖父とその周りに集う親戚たちのわちゃわちゃした雰囲気をふわっと切り取ったような内容だった。親戚たちの集まる宴席で、お酒が回り、誰彼ともなく歌い出したのを祖父はずっと笑いながら見ていて、でもその目には段々と涙が溜まっていき、最後は笑い泣きの様相になったのを、歌と祖父の人生とを重ね合わせて綴った詩。

まぁなんか…今読んでも全然上手とも思わないし、ふーん、みたいな。笑 むしろ気恥ずかしさが勝つくらいのもんで。だからこそ全く覚えてもなかったんやろうな。

今後私が何かをどれだけ書き留めたとて、私が自分の書くことばを"作品"だなんて呼ぶ日はたぶん一生来ないと思う。そして今日のこの言葉もきっとすぐに忘れてしまう。なんだか少し切ないほどに。

なんでかなぁ。不思議やなぁ。

はぁ。。。

こんなん書いてたら眠くなったから寝よう。

笑。適当。徒然。

 

おいしいもの

おいしいもの。

みりん煮した梅。

食前酒にもなる美味しいみりんで作ってるから、アルコールを飛ばした後もコクのある梅酒のような風味でとても美味しい。梅のエキスが溶け込んだみりんは炭酸水と割って飲んで、梅の果肉はスプーンで崩しながらかじって食べる。

スプーンをグッと刺したなら、梅の実がジュワッと炭酸水の中でほどける。少しずつ小さな一欠片ずついただく。みりんの自然な甘味が染み込んだ甘酸っぱく美味しい梅。寒くなってきたらお湯割りでいただく。これもまた幸せ。

 

気まぐれ。3

夏の暑さの酷さについて書いた直後の数日間、少し気温が落ち着いて朝晩は涼しいくらいだった。

でもこの涼しさが台風を発生しやすくしているらしく、私たちは今、めちゃくちゃな暑さに晒されるか、台風で大雨暴風に襲われるかのどちらかを生きるしかないっぽい。

 暑さが和らいでいる時は高気圧の勢力が弱まるため、ブロックが効かず、台風が日本を直撃する「通り道」ができてしまう。

 つまり今年の8月は、高気圧が張り出して命の危険を伴う酷暑になるか、高気圧が弱まったタイミングで台風が近づく、という2つの極端な脅威が交互に訪れる恐れがある。

地球は確実に壊れていってる。これを止めるには、人類が全力で努力して、無駄に車や飛行機(プライベートジェットなんてもってのほか)を使わず、豪華客船に乗ったりもせず、過大な生産開発をするのをやめるなどするほかない。簡単に言うと、強欲を捨て去るということ。

ちなみに、この全力の努力を今すぐに始めたとして、地球が過去の姿に戻ることはなく、そこは不可逆なのだ。でも何もしないとさらにぶっ壊れるから今すぐ取り組まないといけない。地球はそんな状況にある。

でも、、、人間って本当に欲張りだから。あれもこれも欲しがっては、全部自分の手の中に入れないと気が済まなくて。あの子もいい、この子もいいみたいなね。(ちょっと違うか。笑)

まぁ、そんな可愛いもんじゃなく、世界には人間の皮をかぶった欲の塊みたいな恐ろしい存在がいるのはたしかで。そしてそれらが作り上げたシステムの中に否応なく私たちは組み込まれてしまっている。スマホのタッチ一つであっという間に届けられる商品も、誰かへの素早い連絡も、遠くへの移動手段も、便利な生活のほぼ全てが欲の塊とつながっている。私たちは便利さと引き換えに、その大きなものたちの私腹をさらに肥やして、同時に地球をすごい勢いでぶっ壊し続けている。

はぁ…。苦笑 まぁもうどうしようもない部分も現実的にはあって、生きるって所詮そんなもんなんだろうとも思うのだけど。でも、便利さや快適さだけを追い求めて、それしか見えなくなるのは怖い。最近では困ったときは何でもAIが教えてくれて、私たちは自分で考えることすらやめつつある。

でも…そういう生き方をすると心が死んでいく気もする。

そしてその心の有り様は顔や行動に現れる気もして。今、自分は朗らかに笑えているか。目に見える景色や物を慈しんで心をちゃんと動かせているか、大切に想えているか、扱えているか。もしもそれができてないのなら、それは心が死にかけてる兆候で要注意だと思う。結局、自分の心を守れるのは自分だから。誰かがどうにかしてくれるわけじゃないのだ。

今年も祖母に梅干しを渡せた。もう随分と目が見えなくなってしまって、生活も不自由そうではあるけれど…。今年も渡せたことが嬉しかった。

祖母はいつも私が作ったものをとびきり喜んでくれる。「あんた、ほんまにええなあ。体にいいもん自分で作って。そんなんがほんまに私は大好きやで。ありがとう!」そう言ってギュッと強く私を抱きしめた。

帰り道、見えなくなるまで手を振りつづける祖母を見て、なんともいえない切なさが込み上げてきてしまって仕方がなかった。こんな姿をあと何度見れるのか。せめて自分の生きてる間はこんな日があったことを忘れたくないと刻み込むように思った。

ちゃんと生きようと思った。

 

「自分の感受性くらい」茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

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気まぐれ、再び。

患者さんの病室にあるラジオからジュディマリのover driveが流れていた。少し前にもたしか流れていたような。もう30年以上前の曲(怖!)なのに最近また人気なのかな。それとも、夏だから?

遠い昔、長い長い坂道を登った先にある高校へ向かう道すがら、この曲が頭の中でよく再生されていた。暑い夏の日に、たった一人で坂道を登りながら。遠くの空がとても青くて。もうこのままあの青色の中に溶け込んでしまいたいとか思いながら。

「走る雲の影を  飛び越えるわ 夏のにおい  追いかけて」

きっとこの曲のこの歌詞を好きな人が今もたくさんいる気がする。私も大好きだった。あの頃も夏は暑くて苦しい季節だった。でも、この歌詞のイメージで心をいっぱいにしたなら、グッと一瞬、夏を好きにすらなれるような、そんな感じがしていたのを覚えている。

でも。あの感覚を今になって現実的に捉え直してみると、要は今よりは暑さがマシだったのだ。たぶん、そういうことだ。だってなんだか、今のこの暑さの中では、"走る雲の影を飛び越える"のも、"夏のにおいを追いかける"のも、そんなことをしたら確実にぶっ倒れるというリアルの想像の方が勝ってしまう。この季節に太陽の下で全力疾走なんて、危険でしかない。だからこの曲の清涼な空気感は遠い過去の記憶の中でだけ再現可能で、今に置き換えるのは少し難しい気がする。いわば、ある種の郷愁とセットの曲。もちろん、色褪せない名曲だとは思うし、今も聴くと気分が上がるのだけど。

思い出はいつも美化される。私たちは思い出の中を生きてるわけじゃない。特に最近は、リアルをちゃんと直視しないと生存が危ぶまれるとすら思っているし。苦笑

でも、たまには遠くの、そこにたしかにあったはずの夏の気配を思い出して、少し浸ってみるのも悪くはないのかな。

なんて。徒然。

 

気まぐれ。

前回書いた暗黒未来予想が今のところ外れそうにない。

残念だけどやっぱりなぁという気持ち。

 

 

少しだけ。

 

今年も作った。梅干し。

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こんなに暑くても咲いてるムクゲ。夏の花の中で一番好き。

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もうすぐ読み終わる本。

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気候変動がいかにヤバい問題なのかがわかるし、資本主義がもはや終末期にあることを知れる本。みんな読んだらいいのにと思う。

 

最近観てすごいなぁと思った人。

 

この方、何かを成し遂げてるからすごいわけじゃなく(もちろん非凡なことをされてるとは思う)、毎日をただひたすらに誠実に生きているのがすごい。

そして自分以上の自分を見ていない感じもするというか。自分を見つめる目がとても正確な感じがする。それ以上でもそれ以下でもない自分をちゃんと捉えられているとも言うのか。

人って他者評価に依存しない自己評価をここまでしっかり持てるものなんやな。いや…相当難しいはず。だからこそ本当にすごい人とはこういう人なんやろうなと思う。

思うに、この方って、後世に自分の名や功績を残そうとか、そんなこと絶対思ってないもんね。

もうこれ、前々から思ってることで、ついでに言っちゃうんやけど、そういうのってホンマにエゴの極みやなって思いません?(突然の問いかけ笑)

自分が死んだ後の世界にまで自分の影響力を残そうとか、ホンマに欲の極みやんと個人的には思っている。

そんなのはその時代を生きる人や社会が決めることであって、今を生きる私らにできることは、せいぜい後世に負債を残さないようにする努力くらいじゃないのかと思う。

二酸化炭素減らそう、地球をこれ以上汚さないようにしようって個人レベルでも行動する。それはしたほうがいいし、するべきだし。

でも、自分の功績残そう、歴史に名を刻もうはマジでいらん!それは有害。笑

もうね、そんなこと思う人間ばっかりやからこんな社会が荒んでるんやとすら思う。(絶対言い過ぎじゃない!笑)

 

はぁ。久々に書いたらこんなんなっちゃった。

ま、いっか。

 

暗黒社会をどこまで生き抜けるかな。

頑張ろう。

 

未来予想。

もう書かないかなと思ってたけど、今こういうことを考えていたということだけ書いておこうかなと。

もしも輪廻転生を信じるとして、一つ前の前世ではヨーロッパのどこかに、さらにその前の前世では東南アジアのどこかに生きていたかもしれない。わずかな年数しか生きれず病死したことや、戦火に巻き込まれ命を落としたこともあったかも。

どの時代に自分が生まれるのかはわからず、とにかく人は生まれたら最後、死ぬまで生きるしかない。そういう存在なのだ。

私はこの先何年生きるかもわからないけれど、たぶん後半の余生は争いの時代を生きることになるんだろうなと思う。

一生涯を比較的平穏無事に乗り切ることのできた前世があったとしたらそれはアタリの回で、戦火に巻き込まれる回というのはまあまあハズレの回だと思う。

たぶん、今世の私はハズレ。生きる時代も場所もハズレの方だと思う。

歴史は繰り返されるというけれど、それを踏まえてごく客観的に俯瞰的に今の世界やこの国を見た時、未来への希望的観測はもはや難しい。この国には自浄作用がほぼ無くなっていて、どれだけ不正や腐敗に満ち溢れていてもそれを綺麗にする力がない。考える力のない純朴で素直な人たちは簡単に、本当に簡単に騙されてしまうから。

もうこの先、自分たちではどうにもできないだろうから、あとは親分のアメリカがどうにかしてくれるしかないんだろうけど、今のアメリカはアレやからね。苦笑 アメリカが悪いことを堂々とすればするほど、子分の国は自分たちもしていいんだと追従する。もうどうにもならない。もう終わった。

この先、この国はどんどんますます貧しくなっていくだろうし、最悪、地図上からその存在が消えてしまう可能性すらあるなと思う。あるいは朝鮮戦争の時のように、領土が分断されたりなんかもあるかもね。そういう線も無いとは言えない気がする。

この国を主導する人たちは、かの近隣大国に一見、対抗しているように見せかけて、結局のところ、完全制圧されてしまう道を選んでいるようにしか私には見えない。到底勝てるはずのないケンカを仕掛けるのは自滅への最短コースでしかない。普通に考えてそうだ。普通なら当然回避する道をあえて選ばずひたすら危険な道を選んでいくのは、たぶんもう自ら滅んでしまいたいと、そういうことなんだと思う。

このままいけばだけど、この先、人々は声を上げることさえできなくなって、厳しい監視下のなか、為政者の意に反するものは見せしめのように逮捕されたりする世の中になると思う。正しいことの基準が歪み、不正がまかり通る世界の中で、人々はいかにズルく出し抜きあいながら生きるかを考えなくてはいけなくなるやろうな。純朴で素直だった人々は、これからの世界では狡猾であることが必要な能力だと簡単に素直に受け入れて、そうなることを目指していくのだとも思う。

そんな世界の中で病気の人や障がいのある人たちは"自己責任"の名のもとに淘汰され、もはやいないものとして扱われていくだろうし、国益に反するとみなされた存在は非国民として露骨な差別にあっていく。同調圧力はますます強くなって、自己保身のために人が人を監視して、まるでそれが正義かのようにふるまうようになる気もする(これは今もだけど。もっともっと露骨に)。そして貧しい人から戦争に駆り出される。最悪、たくさんの人が死んで、いくつかの街が消える。

たぶん、そうなる。

未来予想。

はぁ。。

ハズレの回やったんやなぁ。最近はもうなんだかそんなことを思っている。でもそんな中でも、戦争の中を生きた先祖たちは荒波をかいくぐってどこまでも"生きる"を選択して来たんだから改めてすごいなと思う。ウクライナの人たちだって戦火の中で仕事に行って、笑顔で生きる人たちがたくさんいるんやもんな。もはや私たちはそこから学ぶしかないのかもね。悲惨な時代にも笑顔で生きる方法、その心構え、知恵。

その前になんかもう色々面倒くさくなっちゃいそうで怖いけど。笑

この先、ヤバい法案がたくさん通っていくだろうから(スパイ何ちゃらとかね)、その頃にはこんな独り言でしかないブログ記事でさえ身の危険につながりうるからそのときにはこの記事を消します。

とんでもない世界になっていくけど、とりあえず生きるしかない。

そうならない未来を祈るけど、どうかな。(望み薄!)

まだ言いたいことを言えるうちに言っといたほうがいいかなと思って書いた。(記念?に)

 

少し前に読んだもの。

これはEメール登録して読んだ。