なんでもない日々。

日々の思いや気づきなどを雑多に書きます。

涼雨の夜に。

お風呂上がりに飲むレモン酒の炭酸水割りが最高に美味しい。

果肉入り。果肉も食べる。お酒は酸味があるけど果肉はとても甘い。

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今日は久しぶりに何もない休日で、朝はよく晴れていた。太陽が雨雲で隠れてしまう前に冬物のニットを一気に洗濯した。もちろんもうとっくに春夏の洋服を着てはいるのだけど(昨日なんて暑すぎてフレンチスリーブ着てたし)、ニット類は綺麗に洗濯してから仕舞い込みたくてそれ用に分けて置いてたのが忙しさにかまけてそのままになってしまっていたのだった。

でもそれも今日で終わり。今日遂に全部洗った。中性洗剤でやさしく揉み洗いして軽く絞ってから洗濯機で脱水。それを何度か繰り返してから干した。暑かったからあっという間に乾いて雨が降る前にはフカフカになった。嬉しい。

正直、家事は嫌いじゃない。割と何でもないようなことで嬉しくなるおめでたい性格だから、ニット洗いなんかもそれ自体、やる前にはなんとなしに面倒な気はするけれど、始めてしまったなら楽しくなり、終わる頃には達成感で心が満ちて、しばらくはそのまま気分良くいられる。

これは昔からそうかもしれない。何か大きなことの達成に向けて邁進するというよりは、目の前の小さなことを一つ一つ拾い集めながら寄り道や道草しつつ進んでいくような感じ。ずっとそんなのが好きなのだ。

子どもの頃、学校からの帰り道やピアノ教室の帰り道、一人でいろんな路地を探索しながら歩くのが好きだった。この道はどこに続いているのかなぁと見知らぬ道を行くのが楽しくて。 もしも迷ったならもと来た道を引き返せばいいやと軽い気持ちでいろんな道を歩いてみていた。今なら危ないからやめなさいと止められちゃいそうだけど。

ただぼんやりと空を眺めるのも好きだった。あの空のどこかには私の知らない不思議な世界がきっとあると信じていた。そんなものは科学的には"無い"とわかった後にも、自分の心の信じる先にはそれは絶対的に存在している何かだった。あるといいなぁ、きっとあるよってずっと思っていたし、そんなことを考える時間が幸せでもあった。

学校の怪談』だったかな。小学生の頃に読んでた怪談話の本の中に、四階の廊下を全速力で走っていたら子どもがあるとき姿を消してしまうという話があった気がする。当時の私はそれを試すべく、誰もいない瞬間を見計らっては四階の廊下を一生懸命に走ってみていた。自分の姿が消えるだなんて怖いとはならずに、あの頃はその消えた先にある場所が何かを知りたくて知りたくて。どうやったらそこに行けるんやろうかって真剣に考えたりもしていた。

なんかとにかく四次元空間をいつでも探してるような子どもだった。笑。

今はさすがにそんなことはしないけど(たぶん笑)、もしかすると好奇心の強度みたいなものはあんまり変わってないのかもしれない。知らないことを知るのが楽しいし、気になることを気の済むまで調べたりなんてのはもはや習性みたいなものだし。

そういえば職場からの帰り道に咲いてるこの花のこと。

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なんか見たことあるなと思ったらキョウチクトウ(夾竹桃)だった。桃の花に似ていて、その茎は竹に似ているからこの名が付いたのだそう。大気汚染の激しいところでもどこででも咲く強い花。…であり、猛毒。

夾竹桃の問題点は、花、葉、枝、根など全ての部分に、青酸カリよりも毒性が強いと云われるオレアンドリンという有毒物質を含んでいることです。口に入れると死に至ることもあるほど危険ですので注意が必要です。1975年にはフランスで、バーベキューをしていた7人の男女が死亡するという事故が起こりました。夾竹桃の枝をバーベキューの串に使ったため、火に焼かれてしみ出したオレアンドリンが肉や野菜にしみ込み、それを食べたのが原因だそうです。

青酸カリよりも毒性が強い物質を含みながら、街中のその辺になにげなく咲いているとは見ようによってはなかなかにすごいとも言える。実際、その危険性を問題視したとある町では一斉にこの木を伐採しようとする動きもあったのだとか。でも、原爆で焼け野が原になった広島の街で翌年に真っ先に花を咲かせたのはこのキョウチクトウだそうで。以来、 キョウチクトウは原爆からの復興のシンボルと見なされ、広島市の花として親しまれてもいるらしい。

キョウチクトウ花言葉は、 「油断大敵」「危険な愛」「注意」「用心」「たくましい精神」。「危険な愛」「たくましい精神」は置いといて、「油断大敵」「注意」「用心」って、花言葉というかなんというかそのまんまやん?って思うのは私だけなのか。笑 花言葉というのもなかなか面白いときがある。

ちなみに私が撮ったこの花は道路に面した公園の入口付近に咲いていたのだけどそれが「キョウチクトウ」であるとも「触るな危険!」なんてのももちろん書かれたりはしてなくて本当にさりげなくなにげなくそこに咲いていた。

え?毒あるって〜?まぁええんちゃう〜大丈夫やろ!知らんけど!みたいな感じなんかな。笑 そう思うと、雑多で良いも悪いも時にはその判断さえも曖昧にいろんなものが混ざり合っている大阪という街に似合う花であるとも言えるのかも…?

書く前は本の話か音楽の話をしようかなと思ってたのに気づけば全然違うことを書いてた件。

…ま、いっか。笑

雨がシトシトと降り続いている今。薄く開けた窓から流れ込んでくる風がとても涼しくて気持ちがいい。この雨は涼雨やな。涼雨(りょうう)。 涼しさが感じられるような夏の雨のことをこのように呼ぶというのも今日知ったこと。

明日もきっと良い一日。

 

豊かに生きる。

もうすぐ終わってしまうけど、21日の今日は夏至で、関西地方は梅雨入りの日でもあった。

夏至は夏の始まりだとも言われるけど、今日を境に昼の時間が短くなっていくということだからなんとなく"始まり"という気分の日ではないなと感じる。実際、夏至の日には新しいことを始めるよりも過去の自分と対話しながら内省的に過ごすのが良いという説もあるらしい。

内省的にということで、ここじゃない媒体で昔書いていた文を少し読み返してみていた。もうかれこれ10年以上前に別のブログに載せてた記事なのだけど、この頃に書いた文は我ながらなかなか面白いなと思うものがあって。当時の自分が今の自分に向けてメッセージを放ってくれてるみたいに思えることがあったりもする。今日はそんな文を少し転載してみようかなと。

北海道を旅行して色々考えたりしたことを書いた記録。ある年、冬と夏に北海道の道東を旅行したときがあった。冬は谷川さんという友人と流氷を見に行き、夏は家族で知床を散策したり阿寒湖や釧路湿原などを見て回った。以下は家族との旅行の後に書いた二つの記事。

注:結構長いです。(ちなみに、『道東へ』というタイトルでシリーズのように1から6まで書いてて、2の後の3、4は主に北方民族のことについて調べたり考えたことを書いた記事なのでここでは割愛。※写真も当時のもの。)

『道東へ2 北方民族』 20××年8月

今回の旅で行った場所の一つに網走にある北方民族博物館がある。ここは唯一、父の希望で行くことになった場所。そこには北方民族に関する貴重な映像や資料がたくさん展示されていた。アザラシの腸を縫い合わせて作ったパーカや、トナカイの毛皮で作ったブーツ、病人の周りを太鼓を叩いて踊るシャーマンの映像、村人が集まり歌いながらクマの魂を送る「クマ送り」の儀式の映像・・・。すごく刺激的でおもしろくて夢中で観て回った。

北方とは、概ね北緯40度から45度以北の地域を指すらしい。シベリアとかサハリンとか。
民族の名を挙げるなら、アイヌ民族のほかに
イヌイットの人たち、アラスカのインディアンなどがいる。北方民族の人びとの生活には素晴らしい生活の知恵が溢れていてそれでいてその精神世界は独特ですごく魅力的。
もっと知りたくなって、博物館の資料集と『北方民族を知るためのガイド』を購入しホテルで寝る前ずっと読んでいた。

"人類が温暖で暮らしやすい地域に安住せず、なぜ北へ向かったのかについてはさまざまな説明がされています。マンモスやケサイなどの大型草食獣を追っていったのか、人口圧や敵対関係によって押し出されたのか、あるいは氷河期の寒冷な気候が緩んだ間氷期に高緯度へ進み寒冷な気候が戻ったときにはそこで適応することを余儀なくされたのか。いずれにしても人類は好奇心旺盛な動物であり未知の土地を求めて旅をするものなのだという考えも説得力のあるものです。"(『北方民族を知るためのガイド』より)

北方民族についての情報は私の好奇心を刺激する要素がいっぱいすぎて語り出したらたぶんこれだけですごいことになりそう。クマ送りの儀式の意味とか、食べ物の保管方法のこととか、
寒冷地で暮らす素晴らしい知恵の数々・・・。その神秘的な信仰の姿、精神世界、シャーマンが超自然的な世界とどう交信してるのかや、北方独特の民族楽器のこと・・・。

ちょっと、北方民族についてはもう少し自分なりに深めてからまた書くかもしれない。興味ない人にはごめんなさいだけど、でも面白いんやもん!

もし明日も北方民族のこと書いてたらごめんなさい。

『道東へ5 豊かに生きる』20××年8月

私が北海道を好きな理由。それは、ちゃんと大地を踏みしめて立っていることを感じられるからだ。どこまでも続く一本道や大草原、電線の無い空。必要以上の物に溢れ、それを次々と欲しがる物欲とは何とも無縁の世界に思える。

・・

以前、冬の知床を谷川さんと旅したとき、女満別(めまんべつ)空港から網走を経由し知床まで一面真っ白な道をひたすらバスに揺られた。時折、凍った湖面でわかさぎ釣りをする人たちが目に飛び込んでくる以外、ひたすら続く真っ白な世界。何を考えるでもなくそんな白の景色をぼんやりと眺めていた。
ただ外を眺め、気づけば2時間が経っていた。知床までの道のりはあっという間だった。

私たちが旅する直前、北海道は猛吹雪で、宿泊したホテルは屋根が一部、無残にもめくれあがってしまっていた。そのなんとも生々しい傷跡に、私たちはすっかり恐れおののいてしまったのだけれども、ホテルの人は、「本当に大変な吹雪でねぇ。お客さん、いいタイミングで来られましたよ」と、いたって穏やかな笑顔で言った。その様子を見ていて、(ああこんなことはよくあることなのか)と気づき、改めて驚いた。

当たり前に自然に感謝して生きる。知床に暮らす人たちはそうやって生きているんだということを知った。

外に出て流氷が打ち寄せる岸辺を歩いた。痛いくらいの寒さで、しっかり防寒したはずの手足がすぐにかじかんでしまって困った。でも不思議と心は安らかで、何もないけどそれがなんかいいな、と思った。流氷を見る以外の目的は特に無かったから、夜は谷川さんと卓球をした。お互い下手くそすぎて笑った。すこーんと突き抜けた笑いがずっと続いた。

その夜、すごく満たされた気持ちで考えていた。都会に住む人間は地球という惑星の中で人間が一番エライと思っているんじゃないのか。何でも科学で解決できると思っているんじゃないのか。勘違いで傲慢な人間!でも自分も知らず知らずのうちにそんな社会の空気に飲み込まれてしまっている。
都会は刺激的で楽しい。そう思ってきた。でも・・何やろう、この違和感。私が欲しがっていたものって一体・・?屋根がめくれあがった知床のホテルで流氷を見て卓球をした。これ以上の何か?これ以上の幸せ?よくわからない。わからないけど、この違和感はすごく大事な気づきに違いない。そんな漠然とした確信を抱きながら眠りについたのを覚えている。

・・

実はこれまで書いてきた北方民族の話はこのときの気づきにつながる話だ。私が最近読んでいる小沢健二の著書『うさぎ!』にこんなことが書かれてある。

"この星には、無数の土地で、無数の共同体が考え出した、無数の社会の仕組みがあるのに!
そして、そういう無数の社会の仕組みのすべてが、無限に発展して、無限に新しい社会の仕組みをつくり出す可能性があるのに!それなのに、豊かな国々では、『資本主義と社会主義。どっちが正しい?』みたいな論議が仕組まれる。
それは『コーラとペプシ。どっちがおいしい?』っていうのと変わらない。どっちもおいしくないって答えたくなる。この世の中が、いくつもあるんじゃない。『この世の中を見る見方』が、いくつもある。『この世の中を語る語り方』が、いくつもある。それなのに、その語り方の中の一つだけが、『これがきちんとした物の見方ですよ』と教えられる。大学とか、学問というもの自体、そもそも全部が、『白人文化の目で物を見る』ように教えるものだから。そして、『大学を中心とした学問の世界』そのものが、白人特有の文化だから。僕らの心に叩き込まれるのは、支配者が書いた歴史。支配者が教えたい世界観。支配者に都合のいい、物の見方。"

この文章、過激やと思う?私はそうは思わない。すごく納得がいくしわかりやすい。みんなが言いにくいことをはっきり言うと、それは「過激」ってことになる。でもそれって誰かから仕組まれて刷り込まれた物の見方じゃないのかな。「過激」だと思いなさいって思わされてるんじゃないのかな。

北方民族の世界には北方民族特有の価値観、仕組みがある。それを白人文化の価値観から見て評価して、劣ったものとして見なす。そんな風潮はたしかにある気がする。
 映画『借りぐらしのアリエッティ』でも小さな小人のアリエッティに向かって主人公の人間の男の子がこんなことを言っていた。"君たちはもうじき絶滅して一人も居なくなる。たくさんの動物が絶滅してきたのと同じようにね"。

アリエッティたちの暮らしはキラキラしていて美しい。それを絶滅させようとするのは誰?

私が冬の知床で感じたことと、『うさぎ!』で書かれてあること、『借りぐらしのアリエッティ』で語られることは全部つながっている。
今回の旅もまた、それを確認する旅になった。

・・

北方民族の精神世界や生活に感動し、多くを語ろうとするのは馬鹿げているかな?無駄なこと?じゃあ無駄じゃないことって一体何やろうね。

問いかけられたらその答えを必死に探す。
そうやって「豊かな国」で私は、できるだけ豊かに生きたいなと思うのです。

よし、私よ、日頃無駄なまでのポジティブ精神を今こそ発揮するときだ! ・・なんて。笑

つい長々書いてしまったけど、自分のために書いておきたくて書きました。

 

写真は上が900草原、下が阿寒湖。

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雨の前のつぶやき。

右腕の肘が痛い…。

ここ数日の忙しさと関係あるのかな。仕事柄、利き手をすごく使うから。帰ってきてからも家事をしたりして結局あまり手を休めてはいないしこうしてスマホを触ってると限界だよと言わんばかりにジンジンとしてくる。これはもう無理せずに早めに切り上げるべきだよということなのかも…。

というわけで、今読んでる本について書こうかと思ったけどまた今度にしようかな。ひとまずタイトルだけでも。 若菜晃子さんの『途上の旅』を読んでいる。紀行文というか、曰く、旅の随筆集。

著者が世界のあちこちを旅しながら主にはその先々で感じたことを綴った随筆集。前作の『旅の断片』がとても良かったので第二集の今作も買ってみたらやっぱりとても面白い。私と著者の若菜さんとは世代も違うしあまり共通するところがないはずなんだけど、物を見る着眼点や感じ方になんとなく重なるところがある気がして、読んでるといつも不思議な共感に包まれる。ああ、私もおんなじこと思ったことあるなぁとか、この場面なら私も同じように感じるやろうなぁとか。本を読みながら旅を感覚的に追体験してるような気分にもなってきて、なんだかそれがとても良いのです。

具体的な話については近いうちにまた。

とりあえず今日はこれでいいかな…。日記というかつぶやきみたいになってしまったけど。笑

追記的に。

昨日はこれ聴いてたら寝ちゃってた。

スティールパンとハンドパンの演奏。スティールパンって楽しげにディズニー音楽とかを奏でてる印象があったんだけど、こういう演奏で聴くと音色がとても神秘的に聴こえてくるみたいでまた素敵やなと思った。

 

こんなところにもヒルザキツキミソウ。どんなところにでも咲いていて感心する。

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好奇心の散歩道。

ほんの少しだけ遠出。

至る所にアナベルが満開だった。

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アナベルは見ての通り白いアジサイ。他のアジサイは咲いている途中で色を少しずつ変化させていくのに対し、アナベルは基本的に白いまま。だから花言葉も他のアジサイとは違う。 「移り気」「浮気」、 「無常」などのアジサイならではとも言えるような花言葉は持たず、「ひたむきな愛情」「辛抱強い愛情」「寛容な女性」など。

とはいえ、白ばかり見てるとなぜか青や紫のアジサイを見たくもなってきて、実際見るとやっぱりこちらも綺麗やなぁなんて思う。

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近くにこんな花も咲いていた。

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オカトラノオ。先端の垂れ下がった様が虎の尾に似てるからというのがその名の由来らしい。

ちなみにイギリスではオカトラノオのことを“Gooseneck(グースネック : ガチョウの首)”と呼ぶのだとか。野生の虎というのはたしかアジアにしかいないからイギリスでは虎という発想は出てきようもなかったのかもしれないな。でもどちらも花の形から動物の身体の一部分を連想しているという点は共通しているのが面白い。

その昔、山の中で最初にこの花を見つけたとき、日本では虎の尻尾と見間違えて後ずさりして、イギリスではガチョウと勘違いした人が捕まえようと走り込んできたりしたのかも…?まぁなんにせよどこかの誰かが名付けたんだろうけど、こんなふうに言葉の由来を想像してみるのも結構楽しい。

ちなみにWeb上からの拾い画だけどガチョウ。

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ガチョウについて今しがた知ったことを少し。

ガチョウには白いものもいて、一見アヒルととてもよく似ている。見分け方は首の短いのがアヒル、首が長くてクチバシにコブがあるのがガチョウらしい。

あと、鳴き声はこんな感じ。(これ私以外に興味ある人いるのかは知らないけど…。この動画、なかなかシュールで笑った。笑)

さて。今日も書いた書いたー。(自己満。笑)

明日は月曜日。

明日もきっと良い一日。⭐︎

 

夢と現実の境目。

夢を見ていた。

このところ10時半頃に急激な眠気がやってきてそのままその辺で寝てしまい、1時を過ぎた頃に目が開いてノロノロと翌日準備をしたりしてまた寝る。

さっき見た夢の中で私は突然ジャズピアノを弾けるようになっていた。いきなりお店で弾いたらそれなりに様になってて、二回目はさらに上手になっていた。夢の中の私は薄っすらとこれは夢なんじゃないかと気づきかけてて、でもまぁ悪くない状況ではあるしそのままいこうってそんな感じだった。

時々、夢の中の自分のテキトーさ加減にびっくりすることがある。まぁいいんちゃう、こんなんもあるんちゃうみたいな。とはいえ現実でもわりとそんなふうではあるんだけど。でも夢のなかの自分はその比じゃない。めちゃくちゃテキトー、ノリで生きてる。その場のノリ120%。

これはもしかして夢というものの特性なのかなと思ってみたりもするけど、そもそも夢というのは無意識の産物であって自分でコントロールできないものなはずで。でもそれでも人によってはやたらとリアリティのある夢しか見なかったり、夢の中の判断や設定も理性的であったりするのかもしれない。

まぁ…そういう夢を見る人はなんとなく目が覚めてからも夢の内容をいちいち振り返ってみたりとかはしなさそうだけど。仮に宇宙人に土星あたりに連れて行かれてそこでダンスするみたいな夢を見たとて、なんであんな夢見たんやろ…そもそも土星ってどんな星やっけ?なんて思って目が覚めてから土星や宇宙人のことを詳しく調べてみたりはしない。たぶん。

ちなみに私はする。(そうやろなと思った人は私のことをわかってきてる人。笑)

寝起きの私はなんとなく今もその気になればジャズを弾ける気がしてて、弾けない現実を少し疑ってみようとしている。そうだったらいいのになぁみたいな。もしかしたらいけるんちゃう?ってなんとなくの希望的観測。いや、思い込み。笑

今からもう一度寝るけど、土星のこと調べながら寝よう。(ジャズのこと書いてたのに土星がより気になってきてる今ね。現実の私もやっばりその場のノリ優勢には違いない。笑)

 

明日もきっと良い一日。

 

レモン酒、立葵、優しさ。

久しぶりにレモン酒を飲んでいる。自作の果実酒。一体いつ作ったのかももはや定かではなく…でも、たしか作ってるさなかに写真を撮った気がして探してみたらあった。

ちょうど一年前の今頃らしい。

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…ドーーン!!!(ビンの写真めちゃデカ笑)

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瓶の底に沈殿していた氷砂糖は当たり前だけど完全に溶け切って今はもう跡形も無い。果肉がたっぷり入っていてもアルコール度数が高いからカビることもなく綺麗な状態で、むしろ作ったばかりの頃よりも熟成されて美味しくなっているような気もする。

今は水で割って氷を少しばかり入れて飲んでいる。ジュース感覚でついどんどん飲んでしまいそうになるけど、こうしている今もジンワリと、そして確実に酔いは回ってきていて、自分の適正酒量を思い知る。私はお酒が好きだけどあまり強くはないから。ある意味良かったような、ほんの少し残念なような。

帰り道の公園の一角でタチアオイが今年も隆盛。

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この遠目にもわかる存在感。立葵という名のとおり空に向かってピンと茎を伸ばして立ち、大きな花をたくさん咲かせる。多年草でわりと手入れの簡単な花ではあるらしいのだけど、それでもこんなに隆盛に毎年咲いてくるのはすごいなと思う。

 

まだこうして咲く前にそこで水やりをしている年配の女性を見かけたことがある。それを見た時、ああ、こうして手入れをしてくれてる人がいるのだなと有難い気持ちになった。

タチアオイもそうだし、今、街のそこかしこで咲いているアジサイノウゼンカズラなんかも、そのほとんどは咲くに至るまでに誰かが土をならしたり水やりをしているのだ。私はいつもそんな花たちを見て和むばかりで…。

花を育てて白黒の街を鮮やかな色で彩るのも何か一つの優しさのような気がする。そしてそれはとてもさりげない。だってどの花を見ても、「この花は○○が育てています」なんて掲げてはいないのだから。植物を育てる人は皆とても寡黙で地道だ。そっと優しい気持ちだけをそこに置いて自分はスッと後ろに下がる。そんな感じがする。

そう考えると、今日のこの話はタチアオイの美しさを讃えるというよりは何げない優しさを見つけた記録と言っていいのかもしれないな。

明日はもう木曜日。

最近信じられないくらいに日々があっという間!

 

衝撃的な。

シンフォニーホールでチョ・ソンジンのピアノリサイタルを観てきた。

最初に断っておくと、私は音楽についてはド素人で、クラシックもピアノの演奏も好きだけど専門的な知識は無に近い。ただ好きなだけ。なのでコンサートの感想も他の音楽通の人のように強弱のコントロールが云々とか、ペダリングがどうのとかは全然書けない。

以下はそういう音楽の専門的知見を持たない人間が聴いた今日のコンサートの感想など。

ちなみにこれも先に言っておくと、何もわからない人間にもハッキリと確信できるくらいに今日のコンサートはめちゃくちゃ素晴らしいものだった。

チョ・ソンジンといえば2015年のショパンコンクールの優勝者であり、若くして世界最高峰のとんでもない実力を持った人。

…ということだけは実はかなり前から知っていた。でもなんとなくじっくり聴き込んだりすることはないままに今まで来てて、最近になって、これまたなんとなくYouTubeなどで演奏を聴くことが増えた。

フィーリングやテンションが合うというのか、聴いてて落ち着くというか。特にショパンの演奏が好きで、ブログを書く時にはこの四つのバラードの演奏をよく聴いている。

今、外は雨が降っていて、ほんの少し開けた窓の向こうから雨音が流れ込んでくる。その雨音ともこのピアノの音色は違和感なく溶け合う感じがする。優しく詩的なイメージの沸く演奏でとても好き。

 

今日のコンサートのパンフレットの中にチョ・ソンジンについてのこんな紹介がある。

圧倒的な才能と生来の音楽性を持つチョ・ソンジンは、同世代の最も優れた才能を持つひとりとして、また現在の音楽界における最も異彩を放つアーティストとして名を成している。思慮深く詩的で、堂々としながらもやさしく、また極めてヴィルトゥオーソ的で色彩豊かなチョ・ソンジンの演奏は、貫禄と純粋さを兼備し、見事なバランス感覚によって生み出されている。

この紹介文に全面的に同意。まさにそんな感じ。

ちなみにヴィルトゥオーソというのはどういう意味かと調べたら、音楽演奏において格別な技巧や能力によって名人、達人の域に達した人物を指すイタリア語であるらしい。これもまたまさしくそうやなと思う。

今日演奏されたのは前半がラヴェルで後半はリストの曲だった。ラヴェルソナチネ、高雅で感傷的なワルツ、そして、夜のガスパール。後半はリストの巡礼の年第2年「イタリア」。

正直、今日演奏された曲の中で聴いたことがあり知っていたのは「夜のガスパール」くらいで、リストの「巡礼の年」はそのような曲集があるということをにわか知識として知っているくらいだった。

ラヴェルもリストも全体的にとても難解でいまいち掴みどころが無いというのが私がそれまで持っていた印象だった。好きか嫌いかで言うと好きでも嫌いでもない。たくさん聴くかと聴かれたら、うーん…という感じ。でもなんとなくチョ・ソンジンが弾くなら聴いてみたいと思えた。そしてそれは正解だった。

最初に弾いたラヴェルソナチネは何か匂い立つような優美な美しさがあって…聴きながらゼラニウムの花の香りがしてくるみたいだった。演奏を聴いてて何かしらの風景や思い出が頭に浮かんでくることはよくあっても香りの記憶が呼び覚まされるなんてのは初めてのことで驚いた。

続く曲たちにもあっという間に引き込まれて、難解でよく知らないはずのラヴェルがこんなにも身体の中に入り込んでは鳴り響いていることに衝撃を受けた。そう、衝撃的だった。"圧巻"とか"素晴らしい"とかじゃなんか足りない。驚異的と言ってもいいかもしれない。私はずっと驚いていた。私の心と身体がそこで鳴っている音を受け取って、明らかに今まで感じたことのない別次元の世界に触れていた。

後半の、巡礼の年「イタリア」の一曲目では想像の中のアドリア海の青い海が心の中いっぱいに広がっていき、耽美的で夢のような演奏に没入しながら迎えた最後の7曲目「ダンテを読んで ソナタ風幻想曲」では、足元の大地が揺らぐような凄まじい感覚に包まれて打ちのめされた。本当に地震が起きてもおかしくないくらいのとんでもない熱量の音がそこで鳴っていた。

二階席の最前列の端っこにいて、最後の一音が鳴り終わった瞬間、一階席の人々がジャンプするみたいにワッと一斉に勢いよく立ち上がるのが見えて、その光景もまた壮観だった。割れんばかりの拍手と喝采、飛び交う怒号のような歓声。そのとき、同じ感覚を受け取っていたのが自分だけではないことを知った。ああ、こんなすごい演奏を聴くことってもうそうそう無いかもしれないなと思ったりもした。

人々の興奮を鎮めるようにしてアンコールで演奏されたのはシューマンの「トロイメライ」で、一転して優しく穏やかな夢の世界が眼前に広がっていった。それはまるで一編の短編映画のようで…。

霧がかった小道をワンピースを着た少女が走っている。少女は次第に大人の女性となり、隣には恋人のような男性がいて二人は談笑しながら霧の小道を歩いている。やがて女性はまた一人になり、背は段々と縮み老婆となっていく。向かう先には薄っすらと小さな丸太小屋が見える。そこが彼女の家なのかはわからない。ただそこに安息があればいいのだけれど。

実際に演奏を聴きながらこんなイメージが頭の中に浮かんでは消えた。なぜだか知らないけど熱いものが心に込み上げてもきて、ほんの少し泣いてしまった。

思ってた以上に、想像してた以上の素晴らしいコンサートだった。たぶん今後の人生においても忘れられないコンサートの一つになったと思う。

演奏を聴きに行きたいなと思った日にちょうどシンフォニーホールでコンサートがあることを知り、それがたまたま予定の無い日でチケットも無事取れて観に行けて。こんなのも何かの縁なんやろうな。

とりあえずソンジン氏にありがとうございますの気持ち。来日してくれて、聴かせてくれて本当にありがとうございました。とてつもなく心が揺さぶられて満たされました。

 

アルゲリッチの演奏だけど、トロイメライはこの演奏も好き。

 

最高だった。

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